2015年05月

どの船をえらんでも







どの船をえらんでのっても
うまく進めなくなったときには


あぁ、あっちの船にしとけばよかった、って思ってしまうものだ。



自分が選択した道で壁にぶつかった時って、選ばなかった方の道なら
うまくやれたんじゃないかって気がして後悔したりする。



だから私は何かを決断する時には
後悔はするものだ、という前提で
じゃあどっちの後悔なら自分が納得できるだろうかって考えるようにしている。



やらずに後悔するよりは
やって後悔する方がいい



大体はそんな決断になる。



負けず嫌いなんで
やらずに終わるなんて
悔しすぎるもん。

育児書は役に立つのか



子どもが生まれる前や
生まれてすぐの頃

不安なことばかりで
ちょこちょこ育児書というか
子育て雑誌みたいなものを読んだりしてた。


へぇ、赤ちゃんってこんな感じなんだぁって想像を膨らませていたのだけど
生まれてびっくり
全然違う。



本には
「赤ちゃんは1日のほとんどを寝て過ごします。3時間おきに母乳やミルクをあげ、赤ちゃんが眠っているときは、お母さんも一緒に横になって身体を休めましょう。」



みたいなことが書かれていた。



が、しかし!!



泣いてばかりで全然寝ない!
おっぱいどんどん飲んでも飲み足りず(母乳はかなり出てたのに)抱っこしてたらねるけど、布団に置くと泣いて起きる!



また抱っこしてやっと寝かしつけたと思って布団に置こうとするとまた起きてギャンギャン泣く!



の繰り返し。



ほ〜ら泣きやんだ、とかいうCDを流してみたりしても効果なしで、私が泣きながら抱っこしてゆらゆらしてる毎日。



みたいな感じで
ちっとも本はあてにならなかった。



けれど、全く無意味かというと
そうでもなくて
たまに同じようなお子さんがいるママからの投書をみつけると



私だけじゃないのか
うちの子だけじゃないのか、と
なんとなく励まされたものだ。



みんなみんな違う人間だし
こうしたからいいとか
こうしたからダメだとかってもんじゃない



ひとりの人間が
身体も精神も日1日と成長していくんだもの



そんな簡単なものじゃない。




わかっているんだけど
ちょっと前に娘が学校行きたくないってなった時に



久しぶりにそんな類の本を買った。


女の子の育て方、みたいなもの。



なるほどなーって部分もあったし
えーそーかなーって腑に落ちないところもあったし。


おかしいなぁ、私だって娘くらいの年の頃に思春期って通ったはずなんだけど
どんな気持ちだったのか
わりと忘れてしまってる。



その本を読みながら思ったのは
こんな本がたくさん出てるってことは



私と同じように
困ったなぁ、こんな時どうしましょうって親がたっくさんいるんだなってこと。



みんな手さぐりで
不安な気持ちと戦いながらも
おかあさんだったり
おとうさんだったりしてるってこと。



どうしようどうしようって
子どもの前でうろたえまくってるわけにいかないから



平然としてる風に見せてはいるけど
親としてこれでいいのかって
日々葛藤しながらやっているのは



自分だけじゃないっていうこと。



それがわかっただけでもう
半分くらい解決したような気すらして
本を開いてみてよかったなって
そう思った。




そしてまた
あの頃、私の親だって
こんな気持ちでいたのかもなって
思うと



思い出せなかった思春期の自分の想いに、ほんの少しだけ近づいたような気がしたのでした。



さあ、夕飯つくろう。

呪縛


夫も私も休みの月曜日。

給料日前で懐もさびしいし
今日はおでかけせずに
模様替え&片付けを進めよう!
ということで


娘が学校行ってる間に
せっせと片付け。


台所、玄関、雑巾掛け
不燃ごみの仕分け…


結構エネルギーを消耗してしまったけど、そこそこきれいになった。



大変な思いをしたあとに
きれいになったあちこちをみて
がんばったねーと互いを労い



がんばったき
お昼たべにいってしまおーやー
と自分達をすぐに甘やかす二人。



予算かけられないので
スーパーのベーカリーコーナーで
安いパンと薄いカフェラテ。



なんとなく連帯感が芽生えたり
ああ、これってすごく対等な関係やなって唐突に思った。


こんな場面でそんなこと思うの
変かも知れないけれど



1回目の結婚では
感じられなかったことだ。



誰の金でメシ食ってるんだ
誰の金で病院行って薬もらってるんだ


そうやって言われても
自分はそんな風に言われて当然の人間なんだって


他の誰よりも
私自身が思ってしまっていた。


言い返す言葉もなくて
足元の床の模様をずっと見ていた。


狂っていたのは
私だったのかもしれないな。


…と、そんなことを考えてしまうくらいには、まだその頃の出来事はあまりにも生々しく


こんなに穏やかに暮らしていても
まだ私の中で終わった訳じゃないんだってことを


安上がりのパンを頬張りながら
思い知らされてしまったのだった。

人見知りじゃないけど人見知り


全然人見知りしないね、と
よく言われる。


初めましての人とも
わりとすぐ仲良くなれる方だとも思う。



人見知りっていうのは
はじめて会う人たちの前で
恥ずかしがって話せない、という
ような意味だろうし


最近ネットなんかでは
「コミュ障」っていうような表現も
されていたりする。



私の場合は
恥ずかしがって話せなくなるんじゃなくて、恥ずかしがりつつも場を楽しくしなければと焦ってしまい



ベラベラとしゃべりまくっては
あとで後悔したりする。



そして、意識してそうしようと思ってるつもりもないのだけど


相手を無意識に観察しては
その人がどんなことを楽しいと感じ
どんなことに対して不快感を抱くのかをなんとなく判断しながら会話をしているようで



ものすごくエネルギーを使う。



それが苦痛、とは言わないけれど
ちょっと自分に余裕がないと
負担になることはあって



そうなると
誰かに会うこと自体が
いきなりしんどくなったりする。



なので、前もって約束するのが
あまり好きではなくて
行き当たりばった的に誘ってもらったりする方が気が楽。



約束をしてしまうとその途端に
会いたい、よりも
会わなきゃ、になってしまうから。



私は人見知りしないんじゃなくて
人見知りしたうえで
人見知りじゃなさそうな振る舞いをしてしまっているという
非常にややこしい性格なのでした。

病名が迷子



もう、ずーっとずーっと長いこと
悶々としている。


自分の病名がイマイチはっきりしない。


もう発病から25年以上経ったのにどうも確定しきれていない感がある。



膠原病(こうげんびょう)という自己免疫疾患であることはわかっているけれど
その中のどの病気なのかがずっと微妙なまま。


膠原病というのは、いくつもの病気の総称のようなもの。


発病当時は高熱や関節痛がひどかったため、リウマチ反応は➖だけれどそれ以外の所見から若年性関節リウマチと診断された。



が、数年後
痛みから今度は全身倦怠感や皮膚症状の方が強くなり、その時の主治医は全身性エリテトーデスと診断。



それも血液データは項目を満たしきれてはいなくて、他の病気がないか消去法でいって最後に残った病名がそれだった。



主治医はとてもいい先生で
他の先生だったらどう判断するか知りたいということで、とにかくいろんな病院にいった。



東京女子医大、京大病院、阪大病院…


阪大病院では当時研究が進み始めていた慢性疲労症候群と言われしばらく治療を受けたけどなかなか改善されず



その辺りから精神面がやられはじめた。
こんなに診断がつかないということは
私自身の我慢や努力が足りないだけなんじゃないかと


とにかく自分を責め続けた。



抑うつ状態や対人恐怖症になって
友達にも会いたくなくて。


元気そうだね、って言われただけで
元気そうなのにしんどいとか甘えてるだけやろって


責められてる気分にすらなった。



そんなことを繰り返しながら
この二、三年は関節の痛みや腫れが強くなり始めたことから


今度は慢性関節リウマチかもしれない、となり今はその治療を受けている。


長く飲んでいるステロイドはそう簡単にはやめられず継続。鎮痛剤や免疫抑制剤。生物学的製剤も試した。


痛みや腫れはあってもリウマチ反応は➖だし、薬を使ってもものすごく楽になっている感じがしない。



ほんまはどこが悪くてどこを治したらいいんだろうって思いながらも


今できる治療を受けるしかないのも現実。そして、その為にはお金もかかるし働かないわけにはいかない。


…というループ。



常に考えてるわけでもないけれど
とくに体調が悪い時には悶々としてしまう。



主治医のことはとても信頼しているので先生もどうしたらもっと元気にしてあげられるんだろうと


いろんな可能性を考えてやってくれているのもよく知っている。



世の中には
こういう私みたいに病名が迷子の人は実はたくさんいるんじゃないかと思う。



どこがどう悪いのか、それをどうやって治していくか、そこにたどり着けない人たちがきっとたくさんいる。



医学は進歩しているけれど、それと同じように昔はなかった病気がみつかったり、医療機器の進歩で今までは見つけることができなかった体内のなにかを発見はできるけれど



それに対する治療法が確立されていなかったり。



そしてまた、そういう人たちがどんなふうに治療を受けてどんなふうに社会で生きていけばよいのか



法律だったり制度だったりもちっとも追いついていない。



と、不満をたくさん抱えてしまうのだけど、じゃあそれを変えてやろうじゃないか!と意気込むほどのパワーはなくて



なんとかかんとかこの毎日をこなしていくのに必死なのが私の現状。



いつまでこんな痛みやダルさが続くのだろうか。



今となっては
どこも痛くなかった
健康な自分の身体を



もう思い出すことができない。
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